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上田明照会の百年

私たち上田明照会は、平成30年(2019)9月に百周年を迎えました。
それを記念し、それまでの百年を纏めた「創立百年史」を発刊しました。
ここで、私たちの歴史について「創立百年史」 より抜粋して述べたいと思います。

上田明照会の沿革

初代会長 横内浄音

上田明照会は、大正7年9月19日に呈蓮寺第27世横内浄音師が創立した。
そのきっかけは、浄音初代会長の恩師椎尾弁匡大僧正により提唱された
「共生運動」であり、それは、衆生救済を目的とする大乗仏教の根本的精神
“  浄仏国土 成就衆生  ” を基としている。これを上田明照会の基本理念に掲げ
「円満な人格の形成(成就衆生)は、社会環境の浄化(浄仏国土)にある」とし
『信仰とは自己満足で終わる観念的なものではない、内に燃ゆる信仰があれば
それは必ず形に現れるべきものである』として本会を発足した。
そして、社会環境の浄化は、児童の健全育成に始まると考え
大正8年 子供会(日曜学校)の設立を機に、児童無料健康相談所、児童保護会
乳児健康審査会、児童歯科相談所、妊産婦相談所、児童遊園地の設置
保育所 甘露園 設立、母子寮 見誓寮 設立など
寺院における先駆的な社会貢献活動を展開していく運びとなった。
二代会長 横内静雄

昭和30年代に入り、横内静雄第二代会長が『障がいを持った子どもたちにこそ、
適切な教育と訓練が必要である』として、精神薄弱児通園施設 宝池園 を開設し、
さらに卒園後の受け皿の必要性から、精神薄弱者のための通所更生施設 宝池慈光園 、通所授産施設 宝池和順園 、入所更生施設 宝池月影寮 宝池住吉寮 を順次開設した。
現会長 横内浄真

平成に入ってからも、障がい者の地域移行を目的とした共同生活援助事業、
母子生活支援施設の受託経営、相談支援事業の開始など、社会福祉法人に
おいても社会貢献や地域における公益的な取組が求められている昨今にあって、
大正・昭和・平成・令和にかけて社会奉仕事業を展開してきており、
横内浄真現会長が示した「明照会職員六つの心得」により職員一致団結し、
現在8つの事業所の運営に当たっている。 
今日に至るまでに、多くの社会情勢の変化や社会福祉制度変革が起こってきた。
その激動の中でも、創立に当たっての初代浄音会長の思い、
それに賛同された方たちの熱意、そして多くの皆様の協力と理解があったからこそ
百年という永きに亘ってあり続けていられることを決して忘れてはならない。

第1章 草創期 1918~1959 地域における草の根福祉の創出

横内浄音会長とその時代

 法人創立100周年を迎えることになった。長きにわたり上田明照会は連綿として現在の社会福祉事業を核にした
地方における草の根福祉のオピニオンとして確固たる地位を築いているのである。
 そのような根拠はどこにあるのか。『創立五十年史』や創立四十年史の内容を持つ「事業報告書」を読み込んでいると、
エスプリと言っていいか「香る」ものがそこにあることに気付く。
 この手の報告集や史誌を「読む」というのはかなりの努力を要することである。よほどの目的意識や見返りがなければ
ページをめくるだけで終わるのが常であろう。会長特命をいただいてから数年にかけてOB職員の集いである若葉会の皆さん
から話を聞いてきたが、最初は聞く話自体がちんぷんかんぷんだった。今も完全に理解できるレベルではない。
だが、お話を聞き取る過程で同志愛みたいな感覚が芽生えてきた。これらはきっと得難い人生の財産となるだろう。
 『創立五十年史』から半世紀。『創立百年史』を構想する都度、脚下照顧の精神がいかに大切かを思い知らされている。
第1章は上田明照会の生みの親である初代会長横内浄音に焦点をあて、共生社会の建設を夢見た青年僧の人となりが
浮かび上がってくるよう『創立五十年史』に書かれている内容にも留意して記述する。



上田明照会設立の趣旨

 この表題ではいくつかの表現で残されているが、その当時の時代性を感じられるものとしては『創立50年史』が最もその任にふさわしいと思われる。

 浦賀一発の銃声とともに鎖国封建の夢破れて、明治の創業は富国強兵欧米文化の吸収にいそがしかった。日清日露の宣戦布告、願いは達せられて北は樺太、南は台湾膨湖島、西は朝鮮満州にと日本国旗が翻った。
 さりながら物質文明に陶酔する結果となり、国民の精神は弛緩することとなったので、国民精神復興の御詔書がでて、民力の涵養を強調したものの益々物質文化のみが発展していった。
 印度の詩聖タゴール翁が来日、日本人は日本の尊い精神文化のあることを忘れて、いたずらに欧米の物質文化に憧れている。「これでは日本は何処へ行くのか」と嘆かれたとのことである。
 当時の仏教寺院の状態は伝統因襲仏陀の教示、法然上人の念仏極楽往生の大精神が現実の生活に生かされていないのではないか。東洋殊に日本文化の基盤となっている仏教が誤り伝えられている現状を見るに忍びず、仏教に対する誤りを正し、真実信仰生活に生きるのが仏教徒の使命でなくてはならない。
 学窓に蛍雪を重ねた青年僧のなすべき急務であることを自覚したので、浄仏国土成就衆生を理念とする同志によって、厚生福祉社会実現を最大の眼目として大正7年9月19日上田明照会の誕生を見たのである。
(『創立五十年史』P1より)

上田明照会とは

 日本仏教社会福祉学会編の『仏教社会福祉辞典』2006年3月30日初版によると
上田明照会は以下のように紹介されている。


◇上田明照会 大正期に設立された児童福祉事業を行う団体。

定義  1918(大正7)年9月、横内浄音(1892~1977、浄土宗・呈蓮寺)により、
浄仏国土(社会環境の浄化)と成就衆生(円満な人格の形成)を目指す信仰団体として、長野県上田市で結成された。

展開  1919年に子供会(日曜学校)を開き、1922年には、当時乳幼児の死亡率が高かったことに対処するため、
市内浄念寺の子安観音の縁日(毎月17日)を選んで児童無料健康相談所を開設、さらに1925年、児童歯科と
妊産婦の相談事業を開始した。また、市街地に子どもの遊び場が不足していたことを考慮して、浄念寺境内に
遊具・運動器機を設置して児童遊園地を造営した。翌年には、託児所「甘露園」(現・甘露保育園)を開設し、
児童福祉事業の整備・充実に力を注いだ。
1929(昭和4)年、不況が深刻化し母子心中事件が頻発するなか、乳幼児を抱えて就業できない女性の支援事業にも
着手し、洗濯や布団の打ち直しなどを行う授産所を併設した。さらに、1935年には、母子寮「見誓寮」を設置した。
時代と地域社会の要請に即応する福祉事業を展開する努力は、戦後も続けられた。1952年に社会福祉法人となり、
1959年には知的障害児通園施設「宝池園」(現・蓮の音こども園)を開所させた。その後、知的障害者通所更生施設
「宝池慈光園」知的障害者通所授産施設「宝池和順園」知的障害者入所更生施設「宝池月影寮」「宝池住吉寮」などを
次々に設置して現在に至っている。

仏教社会福祉的意味づけ
上田明照会は、信仰団体として発足し、大正・昭和戦前期を通じて児童福祉の面での先進的取り組みを次々と
展開してきた。戦後においても、いち早く知的障害児施設に着手したことの意義は大きい。

  【参考文献】
    『創立五十年史』社会福祉法人上田明照会、1966年。長谷川匡俊「横内浄音と上田明照会」
(同編『近代浄土宗の社会事業』相川書房、1994年)(中西直樹)


 筆者は参考図書に記載のある淑徳大学名誉教授長谷川匡俊先生のお書きになった「横内浄音と上田明照会」を丹念に読み、第2章発展期「横内静雄会長とその時代」へのアプローチや懸け橋について思いを巡らすことができた。
上田明照会をその誕生から理解するための先行研究として第1級の価値のある論文であると考えるものであり、100周年記念事業を担う委員会でも第1回目の会議で配布した。
 次に、昭和39年に作成されたと思われる法人パンフレットの記載は浄音会長自らの表現であると思われ文書には熱い情熱が感じられる。以下、そのままに引用することにしたい。



上田明照会 設立の趣旨

 唯心に偏するも、唯物に堕するも、正常な人生観、健全な社会観というということは出来ない。人間生活の福祉は色心不二(物心一如)の基本理念の上に樹立された人生観、社会観にして得られるものである。此の理論を覚り実際生活に体現したのは仏陀として釈尊45年間の覚醒生活であって、それが仏教として現在の世界の人に法雨をそそいでいる。
 この仏陀の体験生活を指針として福祉社会の建設と人間完成を理想とする同志によって大正7年9月19日上田明照会を設立して現在に至っている。


保育所
 昭和元年(大正15年)5月8日設立。母親の膝下にあって心身ともに健やかに育成されることが最も理想であるが、社会生活の変遷に随い家庭における消費面が膨張するようになり、母親の労務に従事することのやむを得ない事情となって家庭において乳幼児育成を犠牲にする世相となった。若し斬くの如くして推移することになれば乳幼児の心身の発育は不完全となり、不良化するばかりであることを憂慮する余り、家庭内にあってか、又は家庭外にあってか、労務に従事する母親に代わって保育施設の緊要なることを痛感し、産婦人科、小児科、歯科医の協力によってこれが設置の運びになったところ、適々市政調査会により力強い鞭撻を受け、時の市会議長成沢伍一郎氏に伴われ東京都において施設を見学、恩賜財団慶福会よりの助成と市内篤志家の浄財により保育園を設立することになった。

授産所
 大正の末期、昭和の始めに、財界の不況逐次強くなり破産した銀行あり、又銀行のモラトリアムによって気狂になったものもある。事業振るわず失業者続出世は正に暗黒で救護になれて転落自立心を失う傾向となった。かくの如き状態が進行するに至っては将来が危惧されるので救護策は緊急なことであることを痛感した。家庭収入増加の一端として職にあぶれている婦人に職を授けるにしかずとして保育所の一隅に授産所を併設、洗濯と布団の修理及び雑巾等を実施する運びとなり、益々其の必要度の認識を深めるに至った時、適々恩賜財団慶福会よりの助成金を市内篤志者の浄財によって保育所に近接して授産所を新築し得たので円滑な運営が出来た。ついで昭和八年三菱・住友両会社の助成寄附によって同所の拡張も可能となり、手袋の製作、和服、洋裁等の課目増加によって補導もかねることにした。
 昭和十二年支那事変の発展となり十三年より軍需作業所として被服縫製に専心することになった。
 昭和十六年十二月支那事変は更に太平洋戦争と展開され、昭和二十年八月十五日、日本の敗戦による終戦となり
軍需縫製は中止と
なった。
 昭和二十一年九月生活困窮緊急生活保護事業による保護施設として認可され施設拡張補助金四万五百円の交付を受けて設備を拡張、越えて昭和二十二年三月生活保護穂による保護授産所となり、足踏ミシンは動力機となり、漸次設備をとゝのえ、戦後の統制も解除された昭和二十五年授産所用設当時の雑巾の作製を再開、刺繍及編物の委託加工、更に二十七年の末より輸出造花の委託加工を始めた。その間上田に実施されていない仕事として絞り加工を始め、先進地である京都或は愛知県の鳴海、更に足利等を見学し、又指導者養成の為に派遣して技術を習得した。又動力機を購入して機械による絞りを始め技術も向上して来たが戦争により繊維の統制の為作業は困難となり中止するの止むなきに至ったのは遺憾なことであった。


母子寮
 大正末期から昭和の始めに渉り経済不況の為就職難となり衣食住に事欠くに至った。殊に幼児を持つ婦人には一層多く遂には母子心中をする事件も発生、殆ど毎日のように新聞はそれ等のことを報道してゐた。かゝる社会情勢に促されて取り敢えず母子室五世帯を設置し、其の後増設の計画であったが支那事変続いて太平洋戦争の為実施するに至らなかった。然し終戦後俄かに住宅難となっていたので本会の既存建物を改造し五世帯を増設し現在迄十世帯の母子が措置されてゐる。

精神薄弱児通園施設
 教育は吾々人間界に漏れなく実施されるのでなくてはならないが、身心障害者に対する保護指導の為に施設は洵に寥々たるものである。これら児童の中には指導如何によっては、社会生活に従事し自立出来る可能性がある。然るにこれ等児童の本質を困却して指導の手を加えないで置く為に非行や反社会的行動をすることになり、本人及其の家庭の不要ばかりでなく、社会が暗くなることにもなる。これを思う時、施設の数は尠ないとは云え白痴級の為の収容施設、魯鈍級の為の養護学級はある。然るにその中間の痴愚階級の為の施設がない。適々昭和三十二年三月二十日児童福祉法第四十二条の改正により精神薄弱児通園施設のことがあり又本会四十周年の記念事業として市内篤志者の助言と協力とによって設置することになり、昭和三十四年九月一日付をもって認可を得た。


 さて、平成も天皇陛下の退位(平成31年4月)で一区切りをつけることが明らかになった今日、大正7年生まれの人は御年100歳である。昭和1年生まれが92歳となり、その頃の様子を直接語ってもらうことは叶わなくなってきた。上田明照会誕生時代の社会的な出来事や背景について編集委員の真部萌が簡潔に整理してくれているので次にそれを引用しよう。


上田明照会創立年1918年(大正7年)に見る時代背景

 社会福祉の歩みを振り返るときに大切なのは政策的な動きや実践的な事象とともに、その時代の社会観や人生観の見方も含めて考えることだと思われる。単に温故知新にとどまらない思想的営為の経過を知ることで明照会創立の果たした顕著な役割が浮き彫りになるだろう。
 わが国が第一次世界大戦(1914年)に参戦し、産業革命や独占資本の集中が進むなかで、労使紛争が急激に拡大していった。富山県に始まった「米騒動」(1918年)は全国に波及していったのである。
 この時代の社会事業は「厚生事業」といい、民間では渡辺海旭(顧問)、矢吹慶輝(主任)、長谷川良信(理事)が「宗教大学社会事業研究室(現、大正大学)」を開設した。学外での学生セツルメント「マハヤナ学園」(1919年)を創設した。関西では「大原社会問題研究所」(1918年)が創立されるなど、各大学や慈善団体においても社会事業の研究・教育が始められた。
 地方行政の取り組みでは岡山県で「済世顧問制度」(1917年)が創設され、大阪府においてもドイツのエバーフェルト市の救済委員制度を参考にして小河滋次郎が「方面委員制度」(1918年)を導入した。行政区ごとに救済委員を配置する方式は「方面委員令」(1936年)によって全国に広がった。
 1918年は1914年に勃発した第一次世界大戦が終結した年である。日本においては1916年~1917年にかけて輸出市場が一挙に拡大し、貿易額の飛躍的な増大により大好況を呈していたが、1918年頃より徐々に貿易額の好況に伴い、実際には米が不足していないにもかかわらず、商人の投機とそれに相対しての農民の売り惜しみが原因となり、米価を中心に生活必需品の著しい高騰がみられ、ひいては大衆の生活を圧迫した。ついには1918年7月富山県を発端に米騒動の勃発を招いた。その騒動は全国的規模へと展開し、飢えたる民衆の存在が確認され、くしくも日本の社会事業成立のきっかけとなっている。
 上田町(現在の上田市)においても米価などの諸物価が1916年からわずか2年足らずで3倍弱の暴騰がみられ、貧弱化した300人から400人の民衆が米騒動に参加している。こうした上田町内の民衆の窮乏は町民の生活はもとより、町内の小学児童の出席状況にも影響を及ぼした。この様な状況の中、上田町においては様々な社会事業が展開され始めた。
1918年貧窮学齢児童救済のため「上田就学奨励会」が設立され、衣食学校用品等の費用給貸の計画が行われた。また、上田地方西塩田村においては村長を中心とした村民全体での臨時救済対応として御下賜金を元本とした「米穀廉売券」の発行をし、世帯の人員に対して給与された。そして同年9月に「仏陀ノ覚醒生活ヲ理想トシテ真実ノ生命ヲ求メントスル」理念のもと、横内浄音氏はじめとする青年僧らによって、上田町の浄念寺に「上田明照会」が設立され、設立後も上田明照会はその時代に応じて社会事業実践を取入れながら、当時の上田地方における民間社会事業の中心的存在となってゆくのである。

【参考文献】
清泉女学院短期大学紀要 第3号 1985.3.8 PP23-32 矢上克己 ISSN0298-6761
清泉女学院短期大学紀要 第5号 1987.2.20 PP47-56 矢上克己 ISSN0298-6761
清泉女学院短期大学紀要 第6号 1988.3.2 PP37-55 矢上克己 ISSN0298-6761
新聞記事に見る激動近代史 グラフ社 2008年 武藤直大 ISBN978-4-7662-1154-2


 この原稿を書くにあたって長野大学の図書館や委員によっては東洋大学図書館にアクセスし文献や資料の収集に努めてきた。その中から本章にふさわしと思われる幾つかの短編を紹介し、横内浄音会長の人柄を偲びたいと思う。


「地方改善の中心に」
 地方寺院経営の隣保事業として長野縣上田市横内浄音君の上田明照會、島根県の隠岐西郷町の名越隆成君の隠岐共生學園、千葉縣館山北條町の河木眞静君の安房保育園、福岡市新森貫瑞氏のナーランダ學園等は孰れも當該地方に於ける模範的施設としての宗門社會事業の基準たる地位にあるものといふべきである。横内君は熾烈なる宗門意識に生きる人。信仰の友を會して上田明照會を組織し、地方の有識階級を誘掖し指導し更にこれを組織して、巨然たる事業圑體として地方改善の中心となりつつある。その保育事業、授産事業等に於ける企劃研究の精密周到機會ある毎にの役員を引具して先づその幹部教育に懸命なるが如き、共に敬服も値する所、彼れ所謂信州人の詰屈剛直、闘志滿々なるが如くにして、而も淡々酒然、忘我の心粋に自適する所得難き修晞の士たるを見るのである。
長谷川良信「浄土宗社会事業概観」(『浄土宗社会事業年報第壱輯』(昭和9年9月)

「現代社会事業史研究」(吉田久一)
 明照会が修養とともに社会事業へと活動範囲を拡大していく契機をなしたのは大正8年1月設立の子供会である。昭和14年度の『事業報告』に「縁起の実相に即して社会報恩の事業として自己生命の延長なる次代の完成を期すべく児童保護事業遂行を期して子供会を創む」と記載されている。
 ところで、修養団体としての明照会の設立理念は「法然上人ノ人格」に基礎づけられているものだが、同会は社会事業に力を注ぐようになるに従って宗派色を減じ、縁起―報恩の思想や、大乗仏教の理念(「浄仏国土・成就衆生」)を前面に打ち出してくることが『事業概要』によって確認される。
 横内浄音は、浄土宗僧侶として、教祖釈尊と宗祖法然への報恩行を、両祖の教旨から導き出された「浄仏国土・成就衆生」すなわち、「人間形成(成就衆生)は環境の浄化(浄仏国土)にあり」(『創立50年史』)と定め、宗教活動と併せて、地域住民の実況に即しつつ児童意保護事業を中心とした総合的な社会事業を展開したのである。

(吉田久一『現代社会事業史研究』)

「仏教福祉研究」から
 横内浄音の上田明照会の社会事業実践は、上田地域の地域福祉実践に留まらず、日本社会事業成立期から不幸な大戦下の統制を潜りながら、戦後の社会生活問題の具体的対応としての福祉実践を一貫して展望されてきたという重要な社会的証拠であり、日本における民間社会事業の社会的証言とでも言えよう。また、本会の社会事業実践は、横内浄音の仏教福祉思想(浄土福祉思想)を基底に置きながら実践理念の継承と福祉対象への限り無い慈悲の精神と阿弥陀如来への信仰の具現化の実現に精進されたと言えるが、その思想性と実践性を継承している本会の社会福祉実践の発展を願って止まない。
(長谷川匡俊『横内浄音と上田明照会の社会事業』仏教文化研究第34号)

「四十周年記念式典あげる」
社会福祉法人の「上田明照会」
 上田市上鍛冶町社会福祉法人「上田明照会」の創立四十周年記念式典は十九日午前十時から吉村県厚生課長、水野上田市長、小宮山市福祉事務所長ら関係者約百二十人が出席して盛大に開かれた。
 「上田明照会」は市内新田呈蓮寺住職横内浄音師(六五)が大正七年有志十七人と仏の慈悲を世の人にわかってもらおうと設定したもので、宗教振興に努めるかたわら同十五年保育園(甘露園)(定員百五十九人)昭和四年には授産所を、同十年には母子寮(十世帯)を設立するなど社会事業につくしてきた。このため横内師はいままでに藍綬褒章、同飾版をうけたこともあり、ことしでちょうど創立以来四十年になるので十九日記念式典をおこなったもの。同記念事業として寺の土地を提供して精神薄弱児の通園施設を設立する計画もたてている。

(信濃毎日新聞 昭和32年(1957)9月20日)


 横内浄音会長の記した「呈蓮寺縁起と八十年の歩み」という小冊子がある。その中に会長ご自身が上田の寺に来た縁や明照会を始められた思いなどが記載されている。出家と実学というタイトルがついているが、浄真会長の手によって百年史にふさわしい字数でまとめられているのでそれを記すことにしたい。


「出家と実学」 (「呈蓮寺縁起と八十年のあゆみ」より)

 師僧の浄海上人は、祖母の未の弟で豊科町宝蔵寺で得度したが、廃仏毀釈の法難に遭い、上田の呈蓮寺第二十五世祥誉上人の膝下に投じ、祥誉上人の遷化により明治30年、第二十六世の法灯を継がれたことが、私の呈蓮寺入りの因縁になったことになる。
 明治33年頃であったか、明科町塔之原の郷里に来られた機会に、師僧の長姉の嫁して居る私の実家に来られたことがあった。その頃尋常小学校三年であった私が庭で遊んでおるのを見て、何か心に通ずるものがあって、上田の寺へ連れて行きたくなったのか、「坊や上田へ行かないか。上田には瓦屋根の立派な大きな学校があるし、おいしいお饅頭があるから」と誘ったのである。
 このように言われての誘いは、その頃汽車の通っていない田舎の学校は、板屋根であり、中仕切は障子であったように思うし、お菓子など滅多に口にすることはできない頃であるから、子供心にいささか動かされたのであろうし、両親や師僧の姉である祖母達に師僧の切なる気持を話したと見え、両親や祖母は頻りに勧めるので遂に、学校と饅頭にひかされて、上田行きの気持ちが決定したのは、明治34年9月25日頃と思う。
  《中略》
 学校と饅頭しか頭になかったが、上田に来て2・3年目、日露戦争末期頃であったか、急性関節リウマチで郷里に帰って治療することになり、一ヶ月程で大体治癒する頃は、里の味が大分と浸透して来た。母親が、‘今、上田から戻って来れば人様から「ぶっかえり」〔辛抱ができなくて出戻りしたという意味か〕だと笑われるぞ’と言われたので、はあ、俺は坊さんになる為に上田へ行ったのかと思った。母親のこの言葉で坊さんにならなくてはならんのだとの意志をもつようになった。
  《中略》
 明治大帝崩御の年、明治45年4月、浄土宗立浄土宗宗教大学に入学、大正6年3月25日卒業した。卒業後、尚、二ヶ年宗学の勉強をしようとの向学心に燃えていた。殊に東京同窓の原田君から宗務所要人及び学校長に下話をして了解は得ているし、同窓一同の希望でもあるから、師連署で願書と誓約書を提出するようにとの懇書が送られて来たので一層熱を盛り立てた。然し師僧は老弱であり、檀家の人達もこれ以上東京で勉強すれば、寺に帰らなくなるのではないかとの憂慮もあってか、師僧の反対強く、学友折角の親書であつたが、燃える心を押さえ断念した。
 然し、浄土宗として最高の学府を出たのに、安閑としていたのでは不甲斐ない、宗教者としてこのままでは申訳けないことだ。教祖釈迦牟尼世尊、衆生福祉の為にと勤苦六年、四十五年御教化の御恩徳に対し、又、末世凡夫の為にと阿弥陀如来大悲の御本願を開顕されて、浄土宗をお開き下された法然上人の御遺訓に報答しなくてはと「浄仏国土成就衆生」を基底として、大正7年9月上田明照会を創設して、各種の福祉事業を経営することになった。
 昭和2年頃であった。恩師椎尾大僧正の御巡錫を願い、上田明照会主催となって公開講演を開催し、終了後御休息の際、私は卒業後、宗学を勉強したかったが寺の都合上、東京での勉強は断念して明照会を設立したことを申し上げたことに対して、大僧正の言われるには、それが実学になるんだとのお励ましを得て信念を固めた。
 上田明照会は単なる思いつきのものではない。仏縁あって寺に入り、小学校から数えると十八年間教育を受けている。その結晶が、上田明照会ともなっていると言える。浄土宗の僧侶であるかぎり阿弥陀如来の大願慈悲をお伝えするのが使命であり、畢生の願いでなければならないと気付かされたので、寺の境内の掃除や檀家への用務その他雑用で明け暮れしていたが、朝早く起きて掃除をすませ、檀家への用務で外出した機会に明照会の事業の事に時間を費して帰るので、師僧から、「おまえは用事に出ると帰りが遅い」とて御気嫌がよくなかったが、夕食後は師匠の就床するまで側にいて、社会の四方山の雑話に尾ひれをつけて詰をしたり、時には世の進みにつれて寺院はそれに随応して教化の生きた殿堂にしなければ無用の長物化になるから寺を解放して人達の集り易い殿堂にしたらと、肩腰の凝りをほどきながら、お話することにした。師僧も大分理解してくれるようになり、師僧を明照会の代表として恩賜財団慶福会に助成金の申請をした。長野県としては初めてのことであり、会長師僧の名義で金二千円の助成交付があつた。師僧は非常によろこばれ、甘露園建設に助力してくれることになり、寺のことに差支えないかぎり、或は場合によっては、都合してまでも明照会のことについては理解してくれるようになった。

  思うこと仰せなりけり果たし得て弥陀のみもとに帰えるうれしさ
浄音師碑
 これは現在私の心境であるが、宗教家として果たすことをはたし得たいとの信念から、阿弥陀如来の御指示御加護と公の御援助によるものであり、又当山の御開山以来各世代様の御冥慮、檀家各位の御協力並びに寺族の助力によって大過なく果たすことが出来、幾回となく天聴による栄光、官公庁及び民間の表彰又感謝状を辱うしたことは真におかげさまであって(中略)感謝と悦びの情をあらわすことにする。

第2章 発展期 1960~1997 宝池園を基礎に知的障がい総合福祉施設へ発展

横内静雄会長とその時代

 横内静雄会長がお話されたり、書かれた文章のうち、昭和58年(1983)に施設の地域化・社会化を目的に開催された宝池住吉寮の実践報告書「地域の中の福祉を考えるみんなの集い~第1回保健福祉講座報告」に収められている「第1回講座 精神薄弱者福祉論の展開 ちえおくれの今昔物語」と平成3年10月23日に呈蓮寺2階広間で行われた職員研修会の会長講話を平成26年に復刻した「明照会建設と『浄仏国土・成就衆生』の理念」という文書が手元にある。
 前者は大学教授として精神薄弱者福祉論を講義されていた会長らしく、「ちえおくれ」の発生原因や処遇の原理原則を歴史的展開からとらえなおそうとした労作であり、後者は明照会を始められた先代の浄音会長の歩みと、設立理念である「浄仏国土・成就衆生」の考え方を職員にわかりやすく解説するという講演であった。
 第2章ではいくつかの文章をコラージュ的に再現することにしたのは、これらを通じてこの時代に私たちを指導された横内静雄会長の
篤く深い思いに触れていただきたかったことによる。
 会長は学究肌であることから難しい表現をされているところも散見されるのだが、児童や利用者の前では月光仮面(月よりの使者)を
やったりサンタクロースに扮したりとユーモア精神が旺盛な“園長先生”でもであった。また、根っからの正義漢であり、曲がったことが
どこまでも嫌いなタイプだったので、内心の苦闘が多かったと思われる。
 筆者はそのような会長から「知緒的障がい福祉の実践家として本物になれ!」と常に叱咤された経験を胸に今日に至っている。
「設立理念を深めてみんなに伝えたいんだ」という言葉が今も新鮮に脳裏に響いている。


宝池園の歩み ―民間通園施設設立までの経過とその苦心―

宝池園長 横内 静雄

 通園施設の殆どは公立であって、民間の施設は極めてすくないと思う。宝池園(現在の蓮の音こども園)もその少ない民間施設の一つであるが設立の経過とその苦心したことについて記述したい。

設立の動機
 本施設は昭和34年9月開所したのであるが、設立の動機は現園長が当時特殊学級担任をしており、学級に教育対象外の中度から重度の児童が多く入級してくるため適正指導が困難であることを痛感していたが、たまたま文部省の特殊教育全国研究会が東京で開催された折に通園施設の制度があることを知り、入級児の収容施設へ入所させることは相当抵抗を示すが、通園施設なら両親のもとから日々通園できるので案外抵抗は少ないのではないかと考え、これら教育対象外の児童たちが適正な処遇をうけられるよう通園施設を設置してはどうかと、社会福祉法人上田明照会に申し出た。しかし、当時通園施設を設置するには様々の制約があり、上田市のような人口7万余の小都市で、しかも民間でということは到底認可されないと、関係機関からいわれた。ところが他県で上田市の人口と同じような小都市で公立ではあるが設置したことを偶然に知り、その例をひいて、明照会長に強く要請した。

設立までの経過
 要請をうけた明照会長は社会福祉協議会や民生児童委員協議会などと話し合い、また知人である中央児童相談所の判定員にも
相談した。その結果それぞれ協力を約してくれたので、33年4月通園施設設置許可内議書を県知事宛に提出した。
設置の理由としては、「精神薄弱児の指導は早期発見、早期指導が性格や習慣形成上から好ましいことであり、幼児時代より豊かな経験を与えることは学校での指導がより有利になり、将来社会人として自立する為にも極めて必要なことである。それがためには精神薄弱児の個性と能力に応じた指導のできる専門施設が必要であり、将来精神薄弱センターとして職業補導、授産等の施設へ発展させる基礎となるためにも通園施設は緊要である」とし、経費300万円で施設づくりをし、33年10月の事業開始の予定とした。ところが内議書に対する回答は半年たってもなかった。
しかし、支援者は日を経るにしたがって増加し、なかにはその年の10月の共同募金に際し通園施設設置のためにと200万円を寄付する篤志家も現れた。
 その後市当局、地域、社協および共同募金会の配分、補助、助成が内定し着々その設置の具体化が計られていったが、依然として県からは何ら回答がなかった。そこで34年2月上田市民生児童委員研究大会で「上田市は昭和28年以来社協が中心になり児童に関する問題を多く取りあげ、児童の総合検診相談を実施し、その成果は地域住民に多大な感銘を与え、強い関心をよび、常時児童の相談に応ずることのできる機関の設置を要望され、社協はその要望により児童相談室を設置し、心身障害児の対策を一歩前進させたが、もっとも数の多い精神薄弱児については施設の不足もあって対策が立てられない状態である。
しかるに折よく上田明照会が通園施設の設置を計画しており、これが実現すればこの児童相談室の機能と相俟って互に有機的に総合的に作用し、精神薄弱児対策に輝かしい光明を与えることと確信する」旨の嘆願書を県や国に提出した。
 34年厚生省は県社会部を通じ設置内議について、「地域の理解協力体制」「この種の施設の理解状況」等8項目にわたり承知したいから資料を持参して欲しい旨連絡してきたので、上京し説明をしたが、入所予定者については曖昧な点があるから、上田市内の精神薄弱児の実存数と予定者の具体的氏名をほしいとかさねていわれ,急ぎ児童相談所の協力を得て、市内小中学校の児童生徒の中から無作為抽出によって7,000名を選び知能テストを実施するとともに、指導上困難と思われる者と就学猶予、免除されている者についても諸検査を実施し、軽度2.1%、中度0.5%、重度0.5%の出現数をつかみ報告した。
 こうした基礎的な資料がもとになって、ようやく7月31日で内議書が承認され、認可申請書を提出するよう指示された。
ついで9月1日付で定員30名の通園施設が認可され事業開始の運びとなった。厚生省の係官からは、民間の通園施設第1号であり、
今後民間で設置していくテストケースになるから、慎重に運営してほしいといわれたとのことである。なぜこのように、多くの人の協力と時間をかけてまでも民間で設置しなくてはならなかったのか、公立ならばもっと早くに実現されただろうにと思われるかもしれないが、由来上田市の福祉事業は民間が常に地域の要求にこたえて公立よりも先に先にと実施してきたので、地域が民間の社会福祉事業によせる期待も大きく、公立では果たしえない成果を上げてきた土地柄によるものであり、市としても公立より以上に成果を上げ得る民間施設を助成し、
親身な処遇ができるように考えていることにもよるものである。更に遠因としては、長野県は昔より英才教育に力を注いできたため心身障害者などの劣者の福祉よりも、英才秀才の優者を育てる教育を重視し、公費の多くは教育関係に使用される傾向にあるため、公立よりも民間施設の方が発達していることにもよるものである。

指導の第一歩とその後
 宝池園は開設当初の9月1日付で4名の児童をまず入所させ、松高逓男園長のもとに土屋浩伸主任指導員、渋谷、沓掛2保母、堀内運転士、尾形調理員の6名の職員で指導を始めた。9月中に3名、10月中に3名、35年3月に1名と34年度中に14名となり、まったく手さぐりによる
指導が全職員の力を結集して行われた。
 指導の苦心の一端を記してみる。開園早々に入所したY君は異常行動が多く、手の平で窓ガラスを叩きガラスをよくわっていた。
手の平をけがするとこぶしで叩き、こぶしをけがするとあしのかかとで蹴ってこわすというように彼自身はけがをすることによって、こわし方も巧みになり、ついには積木で叩くというまでになったが、あまりしばしばガラスをこわされるので職員一同はほとほとこまっていた。
こうした時運転士の堀内さんはY君がガラスを叩きはじめると、すいとだいて寺の山門にある六地蔵のそばにつれて行きお地蔵さまの頭をなでてはY君の頭をその手でなぜて「乱暴するなよ。早くよい子になれよ。」と声掛けをしていた。しかしY君はその後てんかん発作が悪化しとうとう堀内さんの願かけも空しく退園してしまった。又調理の尾形さんはきれい好きで職員にはっぱをかけては園内の整理整頓にはげんだ。もちろん3人の処遇職員も当時は指導事例もなく教材教具もなくそれぞれ艱難辛苦をして工夫をして園児の成長を願って指導にあたった。オルガンが上手でない保母さんは懸命に練習をしオルガンをマスターするなど健常児の保母では考えられない努力をした。
 開設3年目に土屋先生は県の児童相談所に抜擢され、後任者として校長を退職された方を主任指導員として県から世話されたが身体が弱く、しかも長野から通勤するので往復が苦労であるという理由で僅かの勤務で退職され、その後任も主任指導員としては好ましくなく、開園当初からの保母さんも退職するなどでしばらくは落ち着いた雰囲気での指導ができなかったと聞いている。

 このように多くの人の善意と支持協力によってできた宝池園は、開設後5年目になると定員をこえる入園希望数になり41年10月には定員増の認可を得て40名となり56年度まで定員の変更はなく続いたが、54年の養護学校の義務制が実施されるとともに措置児が皆無となり、57年度は定員30名と定員減にした。
 しかし18歳以上になり退園していく人たちの親の切なる願いと、設立当初念願していた職業補導、授産の施設を併設して精神薄弱センターの役割を果たしたいという考えと相俟って、保護者会の熱烈な協力を得て、昭和42年に通所更生施設「宝池慈光園」を、同43年に収容更生施設「宝池月影寮」を、さらに45年に通所授産施設「宝池和順園」を併設するにいたった。このようにして、通園施設を退園してもすぐに成人施設へ入所させることができ、児童から成人まで一貫した指導ができる体制がととのい、現在はこれらの人達が一生楽しく、安心して生涯がおくれるような指導体系を組みあげ地域とともに共存する施設へと機能することを念願としている。  昭和54年度の宝池園保護者部会の冊子より


国際障害者年(1981) “ お祭り ” で終わらせるな
上田明照会会長 横内 静雄

 1981年は国際障害者年。国、県、市町村、街の人たちそれぞれに障害者への理解、社会参加を呼びかける催しが盛んだ。
家庭でも、テレビからはキャンペーンの軽快なメロディーが流れてきて、子供たちも口ずさむ。
 県下では15日に、県が主催して長野市で約千五百人を集めて「国際障害者年記念県民集会」が開かれる。
 だが官製行事中心のあり方に、[聞こえてくるのは行政の掛け声ばかり]といった見方もある。
県は最近、障害者に対するエチケットや障害者年への理解を求めるため、出先機関や市町村に通知を出したりしているが、
これも実が上がっていない証拠と受け取られなくもない。
人間の尊厳、平等の確立にもつながる障害者年の運動をお祭りだけに終わらせないためにどうすればよいのか。
 5日は「こどもの日」である。日頃障害者(児)と接し、大学でも障害者問題について講義している重度精神薄弱児者施設などの経営者、社会福祉法人・上田明照会(上田市)会長の横内静雄さんに登場願った。

「官製」よりも
 国際障害者年ということで、各地でこの言葉をかぶせた催し物が盛んです。行政側に言わせると、国際障害者年というだけで、人も集めやすいとか。施設の側から見てどんな感じですか?
 私も県の国際障害者年を推進する協議会のメンバーですから、あまりきついことはいえませんが、確かに単なるお祭り騒ぎにおわらせたくないという気持ちです。大体、この種の催しは、すむと尻すぼみになりがち。
 これを機に、障害者に対する施策のこぼれているところをさらに盛り上げ、長期にわたって取り上げていくべきだと思います。
いいにくいことですが、例えば、大集会のような形式のもの。あれは大体、参加者は割り当て制で、はじめから民生委員何人社会福祉協議会何人などと決まっている。これらの人たちは日ごろから何らかの形で福祉にタッチしており、もともと関心がある。結局、身内の集まりでしかない。だから、こんども千五百人集めるといったって、一般の人がどの程度自主的に参加するものでしょうか。私にいわせれば、障害者年といっても、一般の人の関心はゼロに近いといっていい。

 本当に実効のあるものにするには、どうすればいいとお考えに・・・。
 官製のセレモニーや“狩り出し方式”をやめて、もっと健常者と障害者が本音が出てくるような形で話し合えないですかね。
これもいいにくいんですが、ほとんどの人は、知恵遅れの子供など見て側に近寄りたくないって気持ち、あると思います。
 私のところの施設に参観に来た人の中だって“この子たち、乱暴はしないでしょうね”などという女性もいる。特に年配の人で、精神異常者と知恵遅れを混同しているんですね。単に表面的な同情ではなくて、障害者達も一人の人間だという意識を持たないと。
それにこれまでの福祉対策は、どうしても自分の意思が伝わりやすい身体障害者向けに比重がかかっていたのではないでしょうか。
 障害者福祉都市に指定された上田市の場合だって、スロープを造ったり、歩道と車道の段差をなくしたり、つまり生活圏の拡大をということで、車いすに乗れる人が主な対象だったような気がします。
 しかし、人にわかるような言葉を持たない精神薄弱者の場合、対策も難しいし、取り残されてきた感じは否めない。
私は、例えば、少人数でもいいから各地で、知恵遅れの本人、その家族と健常者らがグループホームをつくり、友達づきあいができるようになれば、いいと思うんです。

頼もしい若者
 でも、施設の側にも閉鎖的な面がありませんでしたか。なるべくなら、人前にさらしたくない。そっとしておいて欲しい。といった気持ちが。
 昔は家族の意向もあったりして、確かにそんな感じでしたが、今はそんなことありませんよ。私のところの重度精神薄弱者の住吉寮は、
老人クラブの人たちがお茶を飲みに来たり、健常者の皆さんと一緒に掃除をやったり、保育園児や小学生などとの交流もしている。
子供同士の付き合いやお年寄りとの交わりは結構多いんだが、こちらが一番相手にしたいと思っている三、四十代の母親との付き合いが一番できないんです。私どもの組織ももう六十年を経ちました。もっと地域へのオープン化ということを真剣に考えてねばらないと思っています。
 考え方としては、施設そのものをコミュニティーセンターにすること。誰でも、いつでも、気楽に立ち寄れるようなたまり場にしたいものです。
今までの施設の考え方は、社会から隔離し、そこで無事に生活させることだけを考えてきた。大体、施設の多くは、人里離れた不便なところにあるでしょう。

 ところで、横内さんは長野大学(上田市)で精神薄弱者福祉論などを教えておられるが、最近の学生の福祉に対する考え方は
どうですか?
 上田市が県下の他の地域に比べ、福祉に対する意識が高いというのは、一つはここに長野大の社会福祉学科があるためといっていいでしょう。
ボランティア活動を通じて、地域に根を張っている部分がある。女子学生の何人かは“親類などに障害者がいて関心があった”といっているし、“何だかわからないが入ってみて、福祉の重要なことがわかってこれは大変だ”などといっている。
 ところが知恵遅れの施設への就職は、厚生省から割り当てられたワクがあって、門戸は狭い。現状では、一人欠ければ、その分を埋めるだけという程度です。
 だから、そういう施設へ行きたくともワクがないために行かれず、役所や団体などへ行かざるを得なかった学生を何人か知っています。
一方、施設の方は、入所者と職員はマンツーマンが理想。ところが現実は、通園施設の場合、入所者と職員(指導員)の比率は6歳未満が
5対1、6歳以上が7.5対1という状況なのです。
 いずれにしても、今の若い学生が車や異性のことだけに関心があるのではなく、こうした分野にも積極的に進出したいと思っているのは、頼もしい限りですよ。

我が子同様に
 健常者から見ると、障害者のことというのは、その場にならないとなかなか理解できない面が多いと思う。よく、障害児を“ふびんだから”といって死亡させた母親のことがニュースになりますが、障害児の親の気持ちというものはどうなんでしょう?
 昔から、できの悪い子ほどかわいいといわれてきましたが、同時に憎さも強いという実例を、私はいくつか知っています。つき放したい気持ちの人もいる。
美栄とか、世間体もあるし、“こんな子供ができちゃって”と自分を責める気持ちが強いようだ。大体、“親の因果が子に報い”という昔の見せ物小屋の呼び込みが、障害児に対する見方をゆがめてきた。
 相当な地位にいる人でも、障害児を持つと、前世の因縁などという言葉を使うことがあります。夏休みに入所者を親もとに帰すんですが、“来なくていい”という家族もいて、結局、養鶏小屋で夜明かした子もいます。施設にあずければ、それで終わりとするのではなく、将来とも自分の子に責任を持たなければ・・・。

 健常者がごく自然に障害者と付き合うにはどうすればいいんですか?
 普通でいいんですよ。自分の子供と同じように。ひとりの人間として接するというのが基本です。知恵遅れの子供たちは、相手が自分の味方か、おざなりな気持ちか、同情なのかをきちんと見分けます。間違ってもけがらわしいなどという気持ちを持たないこと。
それにしても、“ばかとハサミは使いよう”とか“うどの大木”とかっていうことわざ、何とかなりませんか。“ばかでかい”“ばかにする”・・・。
こんな言葉が日常用語として何気なく使われえている限り、彼らに対する見方は根本から変わらないと思いますよ。


愛と憎しみ
宝池月影寮 寮長 横内 静雄

 私たちは人間関係において愛することと憎むこととの対立する感情を持っている。初めは愛していても何かのきっかけで憎むという感情に移行することもあるし、その反対もある。また初めから憎ったらしいと思い、それが永久に続くこともある。
 そもそも愛とは何かというと種々の語義はあるが感情的に言うと、かわいがり、いつくしみ合うことである。また人間の表情などから、あいきょうがあるというように人に好意を持つことであり、またもたれることである
反面憎むとは、気に入らない、癪にさわる、にくたらしもるといった語彙を持っており人の嫌悪感につながる言葉である。
 私も小学校の教師時代、組の子どもから「先生あの人はお気に入りだけど、私はそうじゃないね」といったことばを聞かされることがあった。自分では組全体を公平に見ているつもりであったが、無意識のうちに愛と憎しみの感情が働き、敏感な子どもの心に映ったものである。このように人間は小さい時から愛と憎しみには心を動かし、ひたすらに愛されることを願い求めている。
 親ともなるとこの愛と憎しみは一層おりなさされて複雑な感情に陥ることがしばしばである。赤ちゃん時代は愛する気持ちのほうが強いが、すこし成長し親に口答えでもするようになると憎ったらしい気持ちが強くなり、中学校、高校ともなって、親を無視したような態度に出られると、より憎ったらしい気持ちがつのる。しかし、心から憎いとは思っていない。ここに親の愛の尊さがある。障害児の親たちは子どもに大きな負い目を持っており、愛と憎しみとの両極端を大きな振幅で揺れ動いている。
 お誕生から赤ちゃん時代は健常児と同様に健やかな成長を願ってやまない気持で愛情をそそいでいるが、異常に気がつき不安となり、医者や心理学者などに相談し、その結果障害が明白になると、それを拒否し診断が間違えであることを考える。
そしてあちこちの相談機関を訪ね歩いたり、何とか正常になるようにと懸命になるが、依然としてその状態が改善されないと、なぜこんな子意が生まれたのかと悩み、その子を憎むようになったり、または親の責任を強く感じ過保護になってしまう。そして、育児について正常な心理状態を保つことができずに世間の眼を逃れ、子どもをかくしたり、果てはその子の存在を否定的に考えたりしてしまう。
 家庭内においては母親は障害児の成長に心をくだき、成長そのものにひたりこんで過保護になってしまい、溺愛して正常な発達を無視してしまう。また反面父親や祖父母はこんな手をかかる子はとか、普通の子とは違った発達を示す子はとかの理由で、排斥し憎しみを持つことが一般的ではないだろうか。いわゆる可愛さ余って憎さ百倍の諺どおりだと思う。
 また社会においては障害児を劣った者という見方から嫌悪し憎むといった感情が通例である。いずれにしても障害児は愛されるよりも憎しみを持たれる方が多いのであるが、これでよいのであろうか。
 愛も憎しみもいずれも執着するということから生起れるものと思う。仏教では一般にこういう愛を、むさぼり執着することであるとしている。将来への期待をかけられた子どもが障害児である場合、其の障害を表面に立ててそれに執着しどうにもならないものとして、その子の人格まで否定し、人間としての尊い価値まで見失ってしまっている。
 障害者でも健常者と何ら変わらない人格を有し、個人個人がそれぞれ尊い価値を持っている。それどころか人間として生きる権利を持っており、どのように生きるべきかの自己実現に向かってひたすらに生命を燃やしている。障害児の家族はこのことに気がつき、愛憎に執着せず、我が子の未来を思い私情を離れて無限の慈悲に生きていかなければならない。
「月影通信」昭和58年3月20日第31号


愚かなる者
社会福祉法人上田明照会 会長 横内 静雄

 私たちは人を罵ることばとして「バカ」ということばを誠に気軽に平易に使っている。そして知恵遅れの人の総称としてこの「バカ」をあてていることは、先刻ご承知のことと思う。
 今、「バカ」ということばの語源を、日本国語大辞典(小学館)で探ってみると、馬鹿、莫迦、破家の漢字を当て「馬鹿」はあて字。
梵語のmaha=慕何(痴)、またはmahallaka=摩詞羅(無知)の転で、僧侶が隠語として用いたことによる。とし、知能が劣り、愚かなる事、またそのさまやその人。あほうと解釈を加えており、・・・中略・・・或作母嫁・馬嫁・破家、共狼籍之義也ともいっている・・・中略・・・「史記」の趙高が鹿を馬を鳥をと言って廷臣をためしたという故事から(異説まちまち・・・)と語源説の項に見えており、前述の慕何、摩詞羅の転、あるいはぼけの義とし、その引用している署名をあげて訳している。
 また、大源海に当たって見ると、日本国語大辞典と同じ語源説をとっているが、オロカナルコト、シレモノ、タワケモノといった解釈をしており、趙高がことについては「秦の趙高が鹿を指して、馬と言いしに付会して馬鹿の字を当てる。趙高がことはあざむきてぶべつしたる意なり。」としている。
 かのように見てくると「バカ」はシレモノ・無智ナル者・オロカナル者との意になるが、果たして知恵遅れの人たちが、このようなことばにあてはまるのだろうか。辞泉には僧侶の隠語として用いられたとあるが、何のために使用した隠語なのか。もし字義どおり、痴、無智として使用したならば悉有佛性を標榜し、大衆の平等をとなえた僧としては思い上がったことばであると思う。
 われわれは何を基準にして馬鹿というのか。知能指数が低いからなのか。学業成績が悪いからなのか。知能指数も学業成績も人間が決めた基準であり、上位への偏りをもって正常なものとし、社会に貢献する者、役に立つものと評価している。この基準から逸脱した者は、全て役立たぬ者として、バカとかカタワケという侮蔑したり差別したりすることばで表現され、道無能と考えられている。
 このように人間が決めた基準とすれば、知恵遅れ即バカとしてよいか,私は釈然としない思いである。
 というのは、私は本来人間は愚かなものであると考えているからである。その理由は浄土宗開祖法然上人も、浄土真宗開祖親鸞上人も、我が身は煩悩の多い大馬鹿者であり、この世の衆生は我が身と同様、すべて愚かなる者と、はっきり宣言されているからである。そして、愚かなる者ときづかせていただき、愚かなるからこそ、人間の本質がわかり、生命の尊さがわかる。そのように導いてくださるのが阿弥陀佛であり、阿弥陀佛の機能する無量寿、無量光によるがゆえであるとされている。
 我々には煩悩具足せる愚鈍な者であるが、「悉有佛性」で、ことごとく佛となり得る資質を有しているのである。これは釈尊の弟子の周利盤特の例を見てもいえることである。
 周利盤特は、生来暗愚で、多くの弟子から侮蔑され、からかわれながらも、黙々として法座の汚れを清めることを専一の行として、遂に阿羅漢という佛の位についたのである。外見は清掃という行動をしていたのであるが、そこには全人間を、全人格を投げ出して行じたからこそ、彼の内心では心の垢が、ぬぐい清められて、佛性が輝き出したのである。
 このように考えた時、我々人間は「バカ」の「りこう」もない。みな限りなき生命と限りなき光を有するもので生成進化していく素質を、皆が有しているのである。
 我昔より造れる諸々の悪業は、無垢より貪りと憤と痴とによる。身とことばと心より生ずる所なり。
一切我今皆懺悔し奉る。

(註)
悉有佛性(しつうぶっしょう)
この世に生きるもの(意識を持ったもの)全てが、佛となりうる性質・輝き(仏性)を持ち合わせているということ。【涅槃経に説かれる】ただ、この仏性は、我々が途方もない昔から積み重ねた煩悩によって、覆い尽くされているとされている。『岩波仏教大辞典』『法然辞典』より

煩悩(ぼんのう)
身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげる心のはたらき。貪り(むさぼり)のこころ・怒りのこころ・物事の正しい道理を知らないことの三つを煩悩がおこる根本原因とし、それに関わる執着の心が煩悩を生むとされている。『岩波仏教辞典』752項より

阿弥陀仏(あみだぶつ)
浄土教で信仰の対象とする本尊の名前。阿弥陀如来ともいう。
※ 明照会の母体である呈蓮寺は、浄土宗なので本尊は阿弥陀仏である。


無量寿、無量光(むりょうじゅ、むりょうこう)
阿弥陀仏のちから・はたらきのこと。
無量寿とは、限りない寿命。無量光とは、限りない慈悲の光。
『岩波仏教辞典』790項より
※ つまり、阿弥陀仏は限りない命を持って、我々を慈悲の光によってお救いくださるのである。


煩悩具足(ぼんのうぐそく)
煩悩が備わっていること。


周利盤特(しゅりはんどく)
『岩波仏教辞典』では周梨槃特と表記されている。お釈迦様の弟子のひとり。

法座(ほうざ)
お釈迦様が教えを説かれる際に座る場所。

阿羅漢(あらかん)
羅漢(らかん)とも略称する。尊敬・施しに値する聖者を意味する。インドの宗教一般においては、尊敬されるべき修行者をさし、原始仏教では修行者の到達し得る最高位を示す。
『岩波仏教辞典』347項より

我昔より造れる諸々の悪業は…
略懺悔(りゃくさんげ)または、懺悔偈(さんげげ)という。法要中に唱え、懺悔の意を述べる文。『佛教語大辞典』2巻44項より

【訳文】我々は計り知れない程の昔から、身体に関わる行為(暴力など)・言語に関わる行為(悪口、嘘など)・意志に関わる行為により様々な悪行を重ねて参りました。今私は、それらすべての悪行を二度と繰り返さぬよう心に決め、深く反省致します。
 『和』 昭和55年8月1日発行 法人機関紙より


住吉寮建設への道
会長 横内 静雄

「…上田明照会の今後の福祉事業の方向としましては精神薄弱者の福祉に重点をおき「親なき後の保障」と「重度者および高年齢者の福祉」を目途としております。
 これが実現のための第1段階として市内神科住吉(伊勢山米山城南)に新しい土地を取得しましたので、比較的年齢の高い精薄者の福祉を守る施設を建設していきたいと考えておりますので、関係官庁、関係機関及び地域の皆様におかれましては今まで以上のご指導ご鞭撻をいただきたく存じます。

主旨 上田明照会では現在精神薄弱児者施設として通所部門(定員自者合せて80名)と収容部門(定員成人30名)があるが通所施設に
入所している人たちの中には年齢や重複障害等また家庭の事情ですでに両親がなく兄弟姉妹が家計をまかなっているとか両親があっても老齢でとうていわが子の世話ができない等家庭環境により収容をせまられているケースも多く、こうした点から保護者たちは「親なき後の保障」ということで社会や行政当局に種々働きかけている。また県障害福祉課でも県内に約千名の潜在精薄児者がいると推定しこれが保護指導を行うためには年次計画により施設の増設を計画しているが、当法人ではその計画の一環としてまた浄土宗開宗八百年記念事業として比較的年齢の高い精薄者も収容して適切な保護指導を行い更正させるための施設を建設し、地域社会の福祉向上のため貢献する。

上田明照会精神薄弱児(者)総合福祉施設維持会発足
 維持会は昭和42年月に宝池園の通園バス購入のための資金を積み立てる主な目的をもって発足。
昭和47年12月総会で発展的に組織変更を実現した。
維持会長 大矢八五郎
 副会長 小宮山利助 小笠原光三 小池守 
 監 事 花岡為雄 喜多尾英治 横島将利


総合福祉施設維持会趣意書(抜粋)

 上田明照会は大正7年(1918)創立以来社会環境の浄化と青少年の健全育成を目標として社会の要求にそって保育園(甘露園)、

母子寮(見誓寮)、授産所と次々に設置し今日に至った。心身障碍児についても、昭和34年(1959)「精神薄弱児通園施設宝池園」を設置してより以来、「精神薄弱者通所更生施設宝池慈光園」「精神薄弱者収容更生施設宝池月影寮」「精神薄弱者通所授産施設宝池和順園」を逐次設置して、福祉の向上と充実をはかってきた。
 しかし、精神薄弱者の年齢や重複障害などによって社会復帰が望めない者が多く、また家庭の条件からしても将来我が子を施設から引きとって世話のできる家庭はすくない。

こうした点より保護者たちは「親なきあとの保障」とうことで社会や行政当局に個々働きかけている。

明照会報(創刊号)昭和48年2月10日


『精神薄弱者の出生と、その周辺探求に関する研究調査~母親としての具体的生活体験を基礎として~』の発行

 本研究調査は(社福)社会福祉事業研究開発基金により助成を得て、創立60周年記念事業として実施した。
上田明照会 会長 横内 静雄

 浄仏国土、成就衆生の基本理念を主唱する前会長のもとに集まった青年男女は、日々の生活に喜びを感じ、一日を精進のうちに感謝する修養を重ねたあげく、この基本理念はわれわれ自身の上だけに具現化されるべきものではなく、広く社会へも及ばさねばならないとの理想のもとに、社会福祉事業へと発展し、今日の「上田明照会」の姿になり、本年で実に62年目に当たる。この長い歩みの中で、時代の要請と社会の必要性から、その都度一つずつ施設を設置してきた。ことに施設のひとつ「宝池園」は、私の切に願望した施設であり、教師としても精薄教育の道を歩んできたので、これを軸として明照会の歴史を着実に受け継ぎ積み上げることを念願している。
 いずれにしても、この間、常に積極的闘志に燃えて実践・実現・継続の歩みであり、“虚偽にみつ世なりとも”“不正にみつ世なりとも”
“憎悪にみつ世なりとも”と反復する「明照会の歌」は、その周辺の事情を明確に歌い上げた意思表現である。
 また、各施設の経営管理にあたっては、近代的な感覚を必要とするが、それには上田明照会という組織の中で、私自身をも含めて一人
ひとりの職員が、各自の職務と権限と責任とを踏まえて、着実に実行することに他ならない。そして、広く門を開いて他の福祉団体と交流し、
社会にたえず接触しながら、そこからよりよい経営管理の糧を吸収していかなければならないと思う。今ここに竹内先生を中心に、各施設主任職員が協力し、市内関係機関はもとより、県的レベルでのご指導もいただき、本研究調査が取り運ばれたことは感謝にたえない。
 ことに上田保健所長真山喜登子先生、前県精神薄弱者更生相談所長三沢光則先生及び信濃教育会教育研究所員田島薫先生のお力に俟つところ多く、また公務ご繁忙の中で貴重な執筆をお寄せいただいた長野赤十字病院精神神経科医長鷲塚昌一先生、本会嘱託主治医荒井真佐次先生にも心からお礼を申し上げたい。
 さらに、上小地区の保健婦業務にたずさわる方々が結成する心身障害者専門委員会メンバーの保健婦各位は、本調査の基礎資料で
ある面接を担当され、長野大学3・4年生(社会福祉学科在学)有志は、録音テープの記録整理に意を注いでくださった。
これまた感謝にたえない。そして本研究調査には知能障害者の実母のなまなましいお立場からの主体的参加なくしては、絶対になし得なかった事であり、忘れてはならない協力者のお一人おひとりである。
 そのお一人おひとりの結晶として、ここに本研究調査がまとめられた。この資料を対象者処遇の上に正しく活用するとともに、本会創立60周年記念事業の一環として、より充実した新しい歩みへの“いしずえ”として参りたい。              昭和55年6月1日
*本研究の概要について「手をつなぐ親たち」(社会福祉法人 全日本精神薄弱者育成会 No,320 昭和57年10月号)に
 平易な文体で報告されています。


第3章 変革と激動期 1998~ 措置から契約へ。サービス提供構造の激変と対策

横内浄真会長の教えに導かれて

上田明照会が未来に向けて一層発展していくための基盤づくりが進められています。中でも人材育成は最重要課題の一つです。
各種の職員研修はその要であり、年間計画により新入職員研修会や中堅職員研修会などの「階層別研修」、
全事業所を対象にした「事例検討会」「専門研修」が積み上げられています。
毎年4月1日に全体職員会がおこなわれます。この全体職員会で会長から年度当初の所信をいただき、
職員にとっては年間の仕事の道しるべとなります。
この章では最初に平成29年度の「新入職員研修会」における会長講話を再現し、広く皆さんに紹介することにします。
さらに、「明照会ニュース第1号」に掲載している「会長講話」を再編集し再現するとともに、一層の理解が深まるように工夫しています。


横内浄真会長の講話
平成29年5月13日
DREAMS COME TRUEの楽曲の一つに「AGAIN」があります。
一人で悩んだ時も 流されるしかなかった頃も
その時やれる精一杯で越えてきたのを みんな知ってる
風には負けて 雨には泣いて 転んで起きて ここへ来たよね
もう一度 今のあなたで やりきった あの涙を
もう一度 今のあなたで 悔いなんてまるでない あの最強の笑顔を
AGAIN
何も考えず ただ楽しかっただけの頃より
今は何倍も強いから 迷ってその後 ぐっと進んでる
嵐に顔を向ける姿も 陰でこぼした涙も全部
そのままで 今のあなたで 震えさせて ここにいるから
そのままで 今のあなたで 震えさせる胸いっぱいの あの最高の瞬間を
もう一度 今のあなたで やりきった あの涙を
もう一度 今のあなたで 悔いなんてまるでない あの最強の笑顔を
AGAIN
もう一度
AGAIN

 これは、仕事で精進している姿であると感じます。誰かが必ず見ていてくれるのです。それを励みにして仕事をやりましょう。
 さて、ここで「上田明照会の設立理念」を再確認したいと思います。

仏国土 成就衆生 = 上求菩提(じょうぐぼっだい) 下化衆生(げげしゅじょう)
 私は「向上心を持ち、自己研鑽を怠らず、それにより得たことを利用者へのサービスにつなげる」という表現で職員の皆さんにお話してきました。少し解説すると「仏国土」の土という漢字の本来の意味合いの中には人間の心身と言う意味があります。
仏国土は自分の心・身体です。自分の心と体を清めて向上心を持ち、学んだものを利用者へのサービスにつなげていくことが大事です。
 「浄土といえども完成し静止した姿ではない。きょうまで荘厳された浄土でも、それをあすへの浄土に荘厳するのが、わたし達のつとめである。」(初代会長 横内浄音)
 清められる私たちの心・身体も必ずしも完成したものではありません。お浄土に近い状態にあっても毎日の精進が必要です。

 次に、法人名・施設名の由来についてお話してみようと思います。ここでは法然上人が歴代の天皇から50回忌毎に頂いた諡号(贈り名)の中から幾つかを紹介します。

法人名施設名の由来
円光(えんこう)
元禄10年(1679)
東山天皇
東漸(とうぜん)
朋栄 8年(1711)
中御門天皇
慧成(えじょう)
宝暦11年(1761)
桃園天皇
弘覚(こうかく)
文化 8年(1811)
光格天皇
慈教(じきょう)
万延 2年(1861)
考明天皇
明照(めいしょう)
明治44年(1911)
明治天皇
和順(わじゅん)
昭和36年(1961)
昭和天皇
法爾(ほうに)
平成23年(2011)
今上天皇

明照 明治天皇より
和順 昭和天皇より
宝池 お寺には山号と院号がある → 宝池山九品台院呈蓮寺
月影 浄土宗歌
月影 月の光、満月の月の光は地上にいる私たちを隈なく照らしている
月の光 浄土宗のご本尊の阿弥陀様の慈悲の光 お念仏を唱える人には誰にでも阿弥陀様の力は及ぶ
甘露 甘露水=不老不死の水 甘露園は大正15年に設立されたもので当時は子どもが病気で亡くなる
    病死の率が高かった。子どもが健全に成長していくようにという気持ちが込められています。
慈光 仏教のことばで、仏の慈しみの光を表しています。
蓮の音 「阿弥陀経」の一節と先代会長の法名から取っています。昨年には園の歌を作りました。
    その時の気持ちは今年の明照会ニュース1月号に載せてあります。
    「蓮の花の色、光、香り、そして鳥の声は個性です…」。

次に、職員の「六つの心得」についてあらかじめいただいた疑問や質問、それから仏教に関する質問に答えてみようと思います。

質問 普段何がなく起こっていることに対して自分がどのように考え捉えるのか。それにより仕事をしていて感じることや
   行動などの変化が表れ、仏教で問う人間完成へ少しずつ近づくということですか?
回答 その通りだと思います。普段何気なく生起している事柄を仏教では「縁起」と言っています。
   縦にも横にも命は皆繋がりあっています。命の繋がりを考えてみるとご先祖様の命の繋がりがあって今の私たちの命が
   あることが分かります。網の目のようないろいろな繋がりを縁といいます。世界中に大きな網の目が架けられていると
   いうお経があります。命は見えない糸で繋がっていて、人間だけでなく動物や植物の命も繋がっていると教えています。
   因果という考えがあります。因(原因)と果(結果)で因果応報という言葉をよく使います。
   物事には必ず起こることに対しては原因があって結果がある。その大元がどこにあり、結果がどうなるかを見極める力
   を養うこと、その状態が揺るぎなく決して退くことがないことが悟りだと思います。

質問 自己中心的な見方をしないということは相手の視点に立って物事を考えるためにも必要なことだと思います。
   常に相手の視点に立って考えられるよう自分を律したいと思っています。
回答 「六つの心得」を示したのは平成14年のことです。私が職員に折に触れて禁止したり、励行を勧めたりしてきた
   ことがあります。まずお客様への配慮が大切です。人と接しているときの言葉遣いや立ち止まって挨拶をすることに
   留意してください。仕事にふさわしい服装というものは必ずあるはずでしょう。お客様に対してたとえば道や行き先を
   聞かれたようなとき、その場で説明するのではなく時間があるのならご案内するという行動が大切です。
   それから、約束した時間を守る。破るということは人の時間を盗んでいるということを意識してください。
   浄音会長は腕時計の針を30分進めていました。決して人を待たせてはいけないという戒めとしてこの姿勢に学びたいと
   思うのです。

質問 福祉の仕事をしていくうえで感情を抑えることが求められることがあります。うまく抑えたとしても心の中が平和では
   ない時もあります。抑えこんだ感情、溜まった感情はどう解消していけばいいのでしょうか。
回答 感情的になると自分が虚しく感じられてしまいます。がむしゃらなやせ我慢ではなく自分の気持ちが楽になる方策を
   考えてみましょう。気分転換をしていくことや息抜きをすること、ほっとする場所やほっとできる時間を大切にして
   ほしいと思います。

質問 障がい者福祉を実践していく上で仏教の持っている強みがあれば教えてほしいです。
回答 仏教は人間皆が平等であるという考え方に立っています。椎尾弁匡(しいおべんきょう)という先覚者が
   「共生運動」を広げてきました。大正時代の経済的には貧しい世の中で、人間は差別なく皆が平等でなければならない
   という考えで提唱されたこの運動を私たちも引き継いでいます。
   お釈迦様のお弟子で周利槃特(しゅりはんどく)という人がいました。知的な障がいがあったのではないかと
   先代会長が言っていました。彼はお釈迦様が教えたことをなかなか覚えられないのです。
   掃除をしながら自分の心垢を武拭いたいと唱えるように教えたそうです。心の垢とはむさぼりであり、怒り、愚痴と
   いう人間の煩悩です。それを取り払うようにということです。この周利槃特も後に悟りを得ることができたそうです。

質問 「六つの心得」を持てない人は福祉に就かない方がいいのでしょうか?
回答 決してそのようなことはないと思います。仏教は難しいものと考えられがちですが、私たちが生き、生活していくこと
   そのものが仏教だと思っています。

質問 自我から出る囚われとは具体的には何でしょうか?
回答 自我=わがまま。自分の物差しでしか物事を観れなくなっている状態を示しています。
   自我から出る「囚われ」や「こだわり」がそれです。


「明照会職員 六つの心得」の真髄

平成14年に「明照会職員 六つの心得」を提示した。
 私は、それまでマニュアルとして文章化されたものに否定的でしたが、職員数が増え、また現在のように職員研修をもつ時間もなく、私が話してきたことを周知してもらうには、必要であると感じ、仏教の「六波羅蜜」をもとに心得とした。それ以前にも、会長代理として、何回か
全体職員会で話してきたことをまとめたことである。以下、原稿のまま掲載する。

 昨年、田中真紀子外務大臣の行動・発言問題があったときに、小泉首相が、江戸後期の儒学者である佐藤一斎という方の、「重職心得箇条」を取り上げていましたが、さっそく出版され売っていました。重職-管理職の心得として17カ条から成るマニュアルであります。
管理職のみでなく、職員全員の心得に通ずるところもあります。そんなことも交えてお話しします。
 テロ事件以来、グローバリズムとともに「共生」という言葉があらためて多く使われるようになりました。このことばは新しいものではなく、様々な観点からこの共生を提唱されましたが、私ども浄土宗としては大正時代初期に、椎尾弁匡大僧正が、国境・民族・貧富・性別そしてあらゆる偏見・差別を無くすことを主張し共生運動をはじめられ、椎尾大僧正に師事しました横内浄音初代会長も、この運動に精力を
かたむけました。この運動への傾倒が上田明照会設立のきっかけとなったことはまちがいありません。
 共生すなわち「成就衆生」であり、すなわちは布施の心の実践であると考えます。
「布」は普くとか広く差別しないという意味で、思いやりのある温かい心で人のために尽くし、その報いを求めない心をいいます。
 思いやりのあるとは、相手の立場に立ってみること。(中略)われわれは、施設利用者個々の要望にできうる限り応じなければなりません。
15年度の改革に対して、すでに法人内各施設で取り組んでいることでありますが、この1年間でスムーズに移行できるように、契約制度導入プロジェクトチームを組んだわけであります。今まで以上に布施の心を高めることが要求されてきます。施設であっても淘汰されるという危機感を更に強くしなければなりません。
 六つの心得の第一が、布施の実践。と聞き、次の五つを思い出していただければありがたいのですが、仏教で説く人間完成への
六の修行、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を六つの心得に置き換えて示したいわけであります。

 次に、私たちを取り巻くさまざまなルールを守る「持戒」であります。法律、就業規則、社会的に必要な慣習・慣例。自分で心に密かに
決めたこと。そして私が折に触れ禁止したり、励行するよう示してきたことを含んで守ること。(中略)
 「重職心得箇条」に「重職は、それにふさわしい威厳が必要である」とあり、これは堂々としていろよりは、その属する組織の威厳を損なうことのないよう、常に責任のある態度を示していろと言うことかと思います。(中略)持戒を妨げるものは、自己中心的に考えてしまうことです。自分を強く律することが重要です。

 「忍辱」。人と人との間を生きて人間です。どんな関係にあろうとも、そこには多くの摩擦が生まれ、ストレスが貯まることでしょう。
視野が狭くなり、これもまた自己中心になりキレてしまう事件ばかりです。そこで、じっと自分をおさえて我慢する姿勢が忍辱です。
私の素顔を暴露すると、外柔内剛、外づらよし。一人でため息ばかり・・自分が損ですね。
けっしてがむしゃらなやせ我慢ではなく、「和」を心掛けることである思います。
 また「重職心得箇条」。「重職は、部下同士の調和に心を配れ」「重職は、部下の気持ちを明るく保たなければならない」。
これには上の者だけが騒ぐことなく、全員の気持ちが固まることが必要です。
ここで、松原泰道という方の著書から引用しますが、師が古城や、お寺の立派な石垣や段々畑のちょっとした石垣を見て書かれていることです。

 古い石組が美しく感じられるのは、このように大小さまざまの形をした石が、巧みに組織だてられているからでしょう。よく見れば同じ形の石はほとんどありません。今様にいうなら、「石垣の石一つひとつは、それぞれ個性を発揮しながら、しかも石垣を組むという大きな目的の
ために、自己を主張することなく相互に共力し共生 きを計っている」となるでしょう。
 現代の石組の資材は、形も大きさもすべて定形なので、面白味も趣きも全然ありません。四角な石材やコンクリートと同じ資質のブロックを積み重ねるだけだから単調になって魅力がないのです。
 私は、民主的な社会というものは古代の石組のように、一人ひとりが個性を発揮しながら共同目的のためには自我を押えて、相互に
生かし合って生活することだ、と思います。私たち一人ひとりは社会という石組の素材の一つです。
《中略》
 「和」はたんなる平和とか、仲良くとか消極的解釈に止めてはなりますまい。和は、基本的に数学用語として解すべきです。すなわち3と2というように二つ以上の数を加えて生ずる価です。日本料理の「和物」は、酢やみそなど異質のものを交ぜ合わせて、個々の持味を生かし
新しい味を創るのです。それが和の用きです。私たち個人も社会生活の石組に参加し、自己を生かしつつ他を支える協同社会づくりに
いそしみたい、と願うのです。

 布施・持戒・忍辱は、他人=衆生、つまり多くの人々との関わりへの心得です。
次の三つは、円満な人格の形成=浄仏国土の実践でありますが、個々の心の内を覗くことのできないもどかしさのあるところであり、
常に自らを省みることが要求されることでもあります。

 「精進」、努力。利用者へのよりよいサービスのための研究を怠らず、その改善、実行に励み、それを「喜び働く」ことにつなげること。
充実した心地よい緊張感を保ちながら仕事をする。考え、実行し、失敗し、また考え、アドバイスをもらったり、そんな繰り返しであっても、
漫然と過ごすよりは、楽しい時間であった経験はみんな持っていることと思います。すべてに充実感のある一日の中で仕事をすることが
「喜び働く」ことであると考えます。

 「禅定」。感情を抑えて、冷静沈着に行動すること。頭に血が上っている姿を「おろかさ」といいます。それが冷め、身も心も静かになって、
その静かさを楽しむことによっておろかさは消え無心になることができます。私たちの自我から出る「とらわれ」「こだわり」を少なくし、
ゆとりのある心をもって正しい判断へとつなげることが、禅定です。

 この正しい判断が「智慧」であります。仏教で言う智慧は、法律や道徳の範囲を飛び越え、社会や時代が変わったからと言って
変わることのない永遠不変の真理を見極めることであり、これができたら正しく悟りを得たこととなります。
これを前置きし、ここで私が心得として示したいことは、今まで学んだ多くの経験や学習によって判断できる「知識」「知恵」であって
かまいません。これらを駆使して利用者が真に要望していることを見極める力、判断する力を更に養って欲しいと言うことであります。
         六波羅蜜の図式
以前、まず布施を心掛けてといったが、
この六つは常に関連しあっています。
布施 相手の立場に立つ。
持戒 すべてのルールを守る。
忍辱 ストレスを抑え、「和」を尊重する。
精進 サービスの追求のために充実した時間を持ち、喜び働く。
禅定 冷静沈着に行動し、ゆとりのある心を育てる。
智慧 真の訴えを見極める。
 このように並べれば、あらためて言うまでもないことでありましょう。
すでに取り組んでいることであります。
 福祉のプロとして、この六つを実践し、人格を円満なものとし、利用者さらには地域へ向けることが基本理念「浄仏国土・成就衆生」で
あります。
 曹洞宗を開かれた道元禅師は「仏道を習うというは、己を習うなり。己を習うというは、己を忘るるなり」といわれています。
仏教を学ぶことは、自分を学ぶこと。自分を学ぶことは、エゴを捨てること。エゴを捨てるとは、この宇宙の中、自も他もない、
私たちはあらゆる事柄に支えられて生きている事実=共生という事実を確認することであります。
 エゴを無くしきることはできないでしょうが、共に生きていることをすべての人が気づくよう願っています。共生へのアプローチを、
私たちは利用者を通じてさせていただいています。日々充実したものでありますように。
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